沈む。
深く深く、沈んでいく…
ここは、どこだ。
俺は、どうなったんだ。
目を開き、見上げる。
遥か天上に、かすかな光。それ以外は、漆黒の闇。
苦しい…息が、できない。
空気を絞り出された肺が悲鳴を上げる。
酸素を欲しがる脳が、がんがんと耐え難い痛みを伝える。
浮かび上がろうともがこうにも、四肢は鉛のように重く、指先一つ上げられない。
その間にも、まるで吸い込まれるように。
沈む…沈んでいく。
体内の残り少ない空気が泡となり、浮かび上がっていくのを見上げながら。
遥か天上の光が、ますます小さく、かすかになっていくのを見上げながら。
ああ、俺は。溺れて、いるのか。
このままでは、死、
その瞬間、俺の思考を塗り潰し、バチン、と
フラッシュバックのように、映像が脳裏を横切る。
消してしまいたいのに、決してそうすることはできない。
それどころか、何十回、何百回と、まるで反芻するように俺を襲う。
そう、それは…、俺が犯した、罪、の、その瞬間。
―…っ
声にならない絶叫を上げる。それとともに、体内の最後の空気が、泡となり吐き出される。
途端に肺を握り潰されるような圧迫感。頭が内側から破裂しそうだ。視界を無数の星が飛び始める。
だがそれよりも。
この胸の痛みを。
脳裏に広がる絶望感を。
だれか、とめて、く、れ
耐え切れぬままに再度絶叫を上げようとした時、ふわり、と感じる浮遊感。
沈み続けていた俺の身体が、なにかに受け止められ、止まる。
…そうか。ここが終点か。
塗り潰されたような闇。耳が痛くなるような静寂。
あの、小さな光さえ…もう、見えない。
頭頂から、指先から、爪先から。徐々に凍りつくような痺れが、上ってくる。
ああ、ここで、俺は…誰に顧られることもなく、朽ちていくのか。
たった一人で。一人きりで。
そういや、ちゃんと謝ることも、できなかった、な。
ゆっくりと目を閉じる。溜まっていた熱いものが、眦を零れ落ちていく。
みんな、ごめん。こんな、ヒョンで…
ヒョン。
どれぐらい、たったのだろう。
脳裏に直接響く声に、俺は意識を引き戻された。
これは、この声は。
いや、まさか、そんな。来る筈がない。来てくれる、わけがない。
あんなにひどいことをしでかした、この、俺のところになんて。
ヒョン。
思考を打ち消すように、一際はっきりとした声が、俺を呼ぶ。
それとともに、脳裏にその姿が、像を結び始める。
聞こえるわけがない。針が落ちる音さえ聞き分けられそうな真の静寂の中で。
見えるわけがない。なにもかも飲み込んでしまいそうな虚無の暗黒の中で。
しかしその姿は、どんどん鮮明さを増していく。
手を伸ばせば触れられそうで。まるで息づいてるようで。
そして一歩、俺に歩み寄り、にっこりと微笑む。
ヒョン。
お前、どうしてここに。
あんまりヒョンが起きないから、起こしに来た。
口に出さない問いに、そのまま答えが返る。笑いながら俺の顔を覗き込む。
いくら遅刻常習犯でも、今回はちょっと遅すぎだよ、ヒョン。
その様子が、あまりにもいつもと変わらなくて。俺は耐え切れず、顔を背ける。
俺は。俺は、いまこの大事な時期に。
自分のことしか考えずに、取り返しのつかないことをしてしまったのに。
取り返しのつかないこと。そうかもしれない。
その言葉に、ズキリ、と。忘れられた筈だった痛みが、胸を疼かせる。
あんなに苦労して、お前が生み出し。リーダーとして、悩んで苦しんで、育ててきたものを、俺は。
でも、取り返しがつくかもしれない。それが決まるのは、今じゃない。これからだ。
言われて、相手の顔を見直す。笑いを消した真剣な目が、見つめ返す。
そしてそれを決めるのは、ヒョン。あなたが、これからどうするかにかかってる。
俺、俺、は…
完璧な人間なんて、いない。俺だって道を踏み外したことは、ある。
氷のように固く冷えた俺の頬に、温かい指先が触れる。
その時俺は、ヒョン達がいてくれたから、がんばれた。だからヒョンも、がんばって。
まだ、いてくれるというのか、見捨てずに。俺の側に。
あ、そうだ今日、出たんだよ、俺の新譜。
そうか、出たのか。がんばったんだな、お前。
うれしそうなその顔につられ、こちらも思わず笑顔になる。
うん。自分で言うのもなんだけど、すっごいクール。聞きたいでしょ?
ああ、…聞きたい、な。
いたずらっぽく言った後、その顔が、真顔に戻る。
だから、…もう、起きて。
ヒョンらは、まだただの友達だった頃から
ひらり、と。軽いステップで、新たな姿が、現れる。
変なことばっかり覚えて、俺を心配させるんだから。
…そうだな。いつもいつも、悪い。
悪ガキだった頃を思い出して、苦笑する。そんな俺を見ていた相手が、首を振る。
だけどね、ヒョンが今謝る相手は俺じゃない。オンマだ。
オン、マ…
ああ、そうだ、俺は、俺は。
もうすっかり生活の一部になっていたあの薬を。掌の上に数えもせずざらざらとあけた時。
彼女の気持ちを…考えも、しなかった。
ヒョンは知らないだろうけど、彼女はずっと、戦ってる。今も。
戦って、いる。
たくさんの、誤報や噂があったんだ。バッシングや圧力も、あったろう。それでも。
ゆっくりと伸ばされた手が、俺の肩に置かれる。
立ち上がって、息子の真実を、告げた。今も息子が戻ってくることを、信じてる。
オンマ…オンマ、俺は。
震える唇を噛みしめる。溢れ出そうとする感情を、抑えるために。
…だから。
肩に置かれた手に力が籠り、強く握られる。
起きろ。彼女の息子が、ここで負けてしまうほど、弱いはずがない。
正面から、真っ直ぐな視線が俺を射抜く。
オンマ…、だけど俺はもう、
まぁだ、ぐずぐず言ってるんですか。まぁた、寝坊ですか。
ふわり、舞い降りた姿がとん、と降り立つ。
ああ、お前も…来てくれたん、だな。
当たり前でしょう。僕がヒョンの世話をどれだけしてきたと思ってるの?
じゃあ、お世話だ。最後の。
俺の言葉に、口を噤む。
その顔を、忘れないように心に深く刻み込む。愛しい愛しい、俺の弟。
お前の神様に頼んでくれ。罰を与えてくれるように。間違いなく地獄に落としてくれるように。
……
そしてお前は。こんな情けないヒョンの事は、一刻も早く忘れてくれ。思い出さないでくれ。
しばらく黙ったまま俺の顔を眺めていた相手が、やがて口を開く。
僕の神様は、ヒョンに罰なんて、与えません。
…そうか。俺にはそんな価値も、ないか。
違います。罰というのは、赦しなんですよ。
…赦し?
わからない。眉を寄せた俺に、笑いかける。
罰を受けたら、それで罪は祓われる。だから、赦しなんです。
そうか。だから、赦し。
ヒョンには、その前にしなくてはならないことが、あります。
しなければならない、こと。また、わからない。
裁かれなければ、ならない。神の前ではなく、人の前で。
聞いた途端に。背筋が凍る。じっとりと額に冷たい汗が浮かぶ。
…怖いですか?大丈夫。
そっと俺の指に指が絡む。
僕らがついています。側にはいれないかもしれないけど。いつも、ヒョンの味方です。どんな時も。
隣の二人も、頷く。そして顔を見合わせて、笑う。
それに、忘れっぽいのは、ヒョンじゃないですか。
俺が何か、忘れたか。
僕、言ったでしょ?五人で一つ、って。それは、今でも変わっていません。だから。
絡んだ指に、力が籠る。
早く、起きて。強いヒョンを、僕に見せて。
強い、俺。まだ俺には残っているのだろうか。この先に耐えられる、強さは。
あーもう、またそうやって後ろ向きになる!
三人の後ろから。ひょっこりと。新しい姿が顔を出す。
もうおまえはいいよ。ひっこんでろよ。
登場もカッコ悪い。
僕のカッコイイ締めで十分でしょ?
ちょ、ちょっとひどくない?俺も入れてよ!
そのやりとりに、こんな時なのに思わず笑みが浮かぶ。ちっとも変わってないな、お前ら。
お前も何か、俺に言う事があるのか。
そう、マンネだって、俺らの一員だ。俺がしたことで、迷惑を蒙っているのは、間違いない。
そんなことは、ありません。
真面目な表情に戻った相手が、俺を見て言う。そうか、今は思ったことが筒抜けなんだ。
そのぐらいの方が、いいです。ヒョンは。俺がどんなに喋らせようとしても、全然話してくれないんだから。
だが、それでは。お前らに、負担が。
逆でしょう。
めったに見せたことのない厳しい表情を浮かべる。握られた拳が、俺の胸を、とん、と打つ。
ヒョンがここに溜めすぎだったから、今、こんなことになっているんでしょう。
……
もっともな言葉に、何も言えない。目を伏せる。
確かに、俺らの仕事は人目から逃れることはできないし、それが辛い時もあるでしょう。それでも。
握られていた拳が開く。掌が俺の胸に、当てられる。
俺らは五人なんです。全部五人で受け止めましょう。
まだ、受け入れてくれると言うのか、この、俺を。
厳しい表情が緩む。いつもの人なつっこい笑みが浮かぶ。五本の指先が、俺の胸を叩く。
当たり前です。だから早く起きて、話してください。ここにあることを、全部、俺らに。
しばらくの沈黙。四対の目が、俺を見つめる。
…俺らは、作り出した。俺達の、世界を。
握られた拳が、突き出される。
そして、育ててきた。五人で。
その手首を、別の手が握る。
僕らは、五人で一つの世界なんです。
さらに別の手が、その手首を握る。
ヒョンのいない世界は、俺らの世界じゃない。
四つ目の手が、握り、その輪が、一辺が欠けたその輪が、俺の目の前に、突き出される。
さあ、帰ってきて。そしてまた、五人の世界を育てよう。
俺は、俺は。
まだこの輪に入ることができるのか。
溢れる涙を抑えられない。俺がしてしまったことを、消すことは、できない。
俺達は、手を伸ばしている。
後は、ヒョンがどうするかだよ。
勇気を出してください。
これからも、みんなで。さぁ、行きましょう。
その声に。
鉛のように重かった腕に力が戻る。氷のようだった全身に、あたたかい血脈が巡り始めるのを感じる。
ああ、俺は、戻れるのか、あの、場所に。
震える手を伸ばす。握られていない手首を、握る。すぐ俺の手首も握られる。強く、強く。
そしてその瞬間、俺の身体は浮上を始める。沈んでいた時よりずっと早く導かれて。ずっと強くなった光に向かって。
ほら、みんなみんな、待ってるんだよ。
早く、帰って来てって。
いっつも起きるの、遅すぎなんですよ。
まったく、世話が焼けますね。うちのヒョンは。
「ご、めん、な」
かすかな声音を聞きつけた看護師が、振り向く。震える指先が、伸ばされるのを見て、目を見張る。
「あり、が、と」
「ドクターとご家族を呼んで、早く!クランケの意識が戻ったって!」
「は、はいっ」
指示を受けた看護師が慌てて駆け出してゆく。その姿を見送ってから、再度患者に向き直り、その様子を確認する。
バイタルサイン、青。脈拍、下限値付近まで上昇。自発呼吸再開。
そっと酸素マスクに触れる。この分なら、すぐにこれは取れるはず。
「…あら?」
頬をゆっくりと撫でる。そこを伝う滴りを、拭う。口角の上がったその口唇の端に触れる。
「泣いているの。…でもきっと、幸せな涙ね。」
~同日同時刻・某メッセンジャートークルーム~
(こんな事言っていいのかわからないんだけどさ)
(こんな時に)
(急にどうしたの)
(今日はおめでとうやっと一山超えたね)
(なんか目を覚ました気がする)
(俺も今)
(そんな気がしてた)
(俺もです俺も!)
(ヒョン達もですか!)
(僕も今そう思いました)
(本当にそうだといいな)
(ヒョン達と同時に思うなんてすごいです!)
(三人が同時に思うなんて)
(きっと本当だよ)
(ヒョン)
(なんで三人ですか四人でしょT^T)